「ゴドーを待ちながら」について無駄な大妄想大会。
いつも逆転裁判についてばっかり書いているこのしょーもないブログを読んで頂き、本当にありがとうございます!!!
今回は、若干逆転裁判から外れて「ゴドーを待ちながら」と言う戯曲について書いていきたいと思います。
なんでこの本についていきなりこのブログで語るかっていうと…。分かりますよね?!恐らく、ではあるのですが逆転裁判3の「ゴドー検事」の名前の由来?だからです!
(いや、この先このブログで逆転裁判と全く関係ないこと書くつもりはかなりあるんですけど…。)
ゴドー検事の名前の由来が分からず、吾童川も含め「ゴドーって何だろう?」と調べたのがきっかけでこの戯曲を知りまして。あ、読んでみようかなと実に10年以上ぶりであろう紙の書籍での読書と相なった訳です。
タクシューさんって確か、大学でそういう勉強してた人だったわ、なんて思いましたっけ。
んで、読んでみたらこれまた、面白いの!!!!!物凄く!!!!!
戯曲っぽいものなんてミヒャエル・エンデの「果てしない物語」しか読んだことなかった私。ええ、何これ面白い!と、またいつもの周回癖を発揮しソッコー3周したわたしです。
そもそも戯曲なので、読書としてはかなり短い時間で読み切ることができるのも、読書リハビリ勢のわたしには合っていたのかもしれません。
と、いう訳で、この謎多き「ゴドーを待ちながら」の勝手な解釈を今日は垂れ流していきたいと思っています!
多分、ストーリーを知ってるだけではこの後の話は意味がわからないと思うので、もし万が一、こんなブログで興味を持ってしまったという奇特な方がいらっしゃったら是非!本をお手に取ることをオススメします!!!
ではでは、本編。あ、ここからは、タグに記載のあることに抵抗ない方だけお進みください!
「ゴドーを待ちながら」は、アイルランドの劇作家、小説家のサミュエル・ベケット氏が書いた不条理演劇の名作であり、彼の代表作でもある作品です。
登場人物は5人。
ウラジミールとエストラゴンは浮浪者のおっちゃん。どういう縁かは計り知れないけれどどうやら二人は長い時間を共有している仲。ウラジミールの方が頭が良さそう。
ポッツォは(多分)金持ちの老年男性。そして彼に長い間仕えている従者(のようなもの)がラッキー。もう彼らは50年ほども一緒にいる様子。
使者の少年。ゴドーの下に仕えている。彼には兄がいて一緒にゴドーに仕えているが、兄の方が何かとゴドーに辛く当たられている様子。
それを踏まえてのストーリーがコチラ。
ウラジミールとエストラゴンがひたすら「ゴドー」を待っています。待っている間にポッツォとラッキーが通り掛かってお喋りや色々な暇つぶしをし、別れます。そして夜になったところで使者の少年がウラジミールとエストラゴンのもとに現れ「ゴドーは今日は来ない、明日来る」と伝えます。
翌日も、ウラジミールとエストラゴンは「ゴドー」を待ちます。そこに昨日と同じくポッツォとラッキーが通りがかります。でも、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは喋ることができなくなっています。それでも昨日と同じように通りがかり、お喋りや色々な暇つぶしをし、別れます。そして昨日と同じく使者の少年が現れ「ゴドーは今日は来ない、明日来る」と伝えて幕を閉じます。
同じ様な一日が、設定を変えて2回繰り返されているお話です。
ちょこちょことネットを見た限りでは、やっぱり「ゴドー」とは何者か?というのが結構色々議論されている様です。
一番有力な解釈は「ゴドー」は「GOD」で、神を待っている、というものでした。わたしにはあまりわからないのですがキリスト教的な解釈っていうのが多かったかな?と思います。
でも、これを読んだ私の解釈としては「2人の男性の人間関係」じゃないかなぁ、と思うのです。
えっと、言いにくいですが、BL(船荷証券ではなく、ボーイズラブ)的な。
サミュエル・ベケット氏はアイルランド人です。今でこそ、同性婚が世界で最初に認められた国となったアイルランドですが、1993年まで、同性愛が犯罪として扱われていました。この戯曲が生まれたのは勿論、同性愛が犯罪だった時代です。
あらすじの通り、ウラジミールとエストラゴンはもう数十年、一緒にいる仲で、お互い何やら支え合って生きているようです。パッと見、ウラジミールがエストラゴンを助けっぱなしな様にも見えるのですが、ウラジミールがエストラゴンに執着している描写がそこココとあり、とにかく二人には深い絆の様なものがあるのです。
一方で、ポッツォとラッキーは50年一緒にいる従者と主人であり、これまた長い仲です。でも、ポッツォは、今から使い物にならなくなったラッキーを市場に売りに行く途中だ、とウラジミールとエストラゴンに話します。
使者の少年は、兄と一緒にゴドーの下で暮らしている様です。でも、この兄弟、仲が良さそうな雰囲気はありません。兄はゴドーに辛く当たられ、恐らく弟はそれを傍観しているのではないかなと思うのです。
こうして、登場人物をペアにして整理してみると、ポッツォとラッキーは「契約による主従関係」が成り立っており、使者の少年は「兄弟」という揺るぎない関係が成り立っています。
そのいずれもが破綻してもおかしくないくらい冷えた関係だというのに、その関係にはきちんと名前がついています。
一方、ウラジミールとエストラゴンの間には、深い絆の様なものがあるにも関わらずその関係は何の名前もない。死ぬ気がないような自殺ごっこに興じる場面があるのですが「どちらか一人が残されてしまう」という理由であっさり止めてしまう程「2人でいる」ことを熱望しているのに、その関係には名前がつかないのです。
いや、この2人の関係に名前をつけてしまうとそれは強烈な禁忌、犯罪となってしまうから付けることが出来ないのかも知れません。
この確かな、でもぼんやりとした2人の関係は「同じ場所でゴドーを待つ」という行動をすることで、また明日も続けることが出来る。小説なので何とも言えないけれど、ずっと同じことを繰り返して、この2人は長い日々を積み重ねて来たのではないかと思うのです。
ゴドーが神だろうが何だろうが中身は関係ない。ただ「来ないもの」であればいい。
そうすれば、きっと2人は明日も「深い絆の様なものがあるのに名前のない関係」を続けることができる。
そう信じて2人はずっと「ゴドーを待つ」をしていたんじゃないかな、というのがわたしのこの本を読んだ解釈です。そう、本当にゴドーが現れるのを待っていたのではなく。
ゴドーが何かということではなく、この2人の名前がつけられない人間関係を、関係性に名前のつく2人を交えながら淡々と切り取って提示している様に感じられたのです。
当時、同性愛は犯罪だった時代。どうしても離れがたい2人がたまたま男性同士だった。その事実だけを切り取って「さあ」と目の前に提示して「後はお好きに」と去っていく。
残されたわたし達が目の前に提示された事実を手にして何を思うのも咎めない、そんな作品の様に感じられるのです。
実際は…。どうなんでしょうね!それこそ、何を伝えたかったかは、ゴドーのみぞ知るってところでしょうかね!
夏休みも終わっちゃうけど、妄想はまだまだ続く!!